灘五郷酒造組合サイトマップ

灘五郷:歴史

灘五郷は、神戸市・西宮市の沿岸部に栄えた、
室町、江戸時代から受け継がれる「日本一の酒どころ」です
現在の発展に至るまでをご紹介します

明治維新〜酒造経営の変革〜

江戸の繁栄とともに酒造業界は発展を続け、灘目一帯には千石造りの酒造蔵が建ち並び、その盛況ぶりを物語りました。しかし、明治維新を迎えるとそれまで営業特権を保証されてきた灘五郷の江戸積み酒造株体制は、大きな時代の変革に巻き込まれていったのです。維新政府は、江戸時代の酒造株に対して酒造鑑札書替料を徴収。灘五郷の株高五十万石余りに対し、十万両以上という巨額の出費を命じたのです。酒造家が厳しい徴収に応じたのは、酒造鑑札が「永世の家督」として保証されることを期待したからでした。
ところが、明治4年になって期待は裏切られることに。旧酒造鑑札は没収され、新鑑札が交付されたのです。新しい鑑札は、新規免許料金二十両と、免許料として酒造稼人一人につき毎年五円を納めると、誰でも酒造業を始めることができるというものでした。酒造特権は消滅し開業が自由になったため、全国の地主たちは一斉に酒造業を始めました。こうした地主酒造家の台頭によって灘酒造業は受難期を迎え、全国的な競争体制の中に投げ出されてしまったのです。

画像提供:辰馬本家酒造株式会社画像提供:白鶴酒造株式会社

酒屋会議と危機からの脱出

その後、政府は明治4年に「清酒・濁酒・醤油醸造鑑札収与並ニ収税方法規則」を交付し、酒造業についても全国的均一化の政策を実施。明治8年にはこの規則を集大成し、営業税・酒造税、鑑札及び醸造検査をまとめた「酒類税則」を交付しました。
明治13年、酒造検査の徹底化と罰則規定が強化された「酒造規則」の交付を機に、酒税の軽減を要求する酒造家の反税闘争が各地で高まり、その火の手は全国的な酒屋会議にまで結集されていきました。これに追い打ちをかけるように、政府は増税をもって対応したのです。しかし、灘酒造家は酒屋会議には積極的に参加しませんでした。その理由は、酒税の引き上げに耐えられる企業型の大規模酒造家グループと、重税が経営の圧迫となる零細な小規模酒造家グループとの経営差が、酒屋会議への対応を二分化させたからです。
こうした流れの中、江戸時代から続く有力酒造資本は幕末維新期の経営不振を断ち切り、営業税の増徴を強行していった政府の政策基調に乗りながら資本蓄積の条件を見い出し、明治20年以降の灘酒造業は起死回生の道を歩み出すこととなりました。

明治8年(1875):酒類請売営業免許鑑札 明治13年(1880):酒類製造営業免許鑑札
出典:国税庁ホームページ

酒造経営の近代化と大正期の好景気

明治維新以降の沈滞からようやく脱出した灘酒造業は、酒造業の近代化に向かって組織や技術・流通機構の改革を試み始めました。
この動きに積極的だったのは西宮郷でした。企業近代化の先駆けとして日本摂酒会社や西宮造酒会社を設立するとともに、煉瓦造りの模範的酒造工場の建設や、精米工程への蒸気力の導入と石炭の使用など、次々に設備の近代化へも踏み出したのです。さらに、酒造技術の革新を視野に、日本酒類試験所と称する醸造研究所も創設しました。設備の近代化によって誕生した原動機による精米工場と瓶詰め工場は、江戸時代の酒造蔵から酒造工場へとイメージを一新。急速に市場も拡大し、日清戦争を契機に灘五郷の地位は再び確立されました。さらに、日露戦争にかけて資本主義の急速な発展と国内経済の成長に伴い、灘酒造業は大正期の好景気を迎えたのです。

画像提供:白鶴酒造株式会社

参考引用文献:灘の酒博物館(講談社)他、灘酒造組合並びに各酒造所有資料